言葉に頼る
チェックしているさとなおさんの今日(2004/1/31)のメモに、
☆ ☆ ☆
ただ、映像やアートに関して日本は言葉に頼る部分が多いと感じる。
皆が同じ言葉を話してきた島国だからということもあるだろう。アメリカは
様々な言葉が飛び交っている分、イイタイコトを伝えるためにヴィジュアル
をより多用する。そのためヴィジュアル伝達手法はとても発達している。
その辺正直「かなわないなぁ」と感じることは多い。
☆ ☆ ☆
と書かれていたのを読んで、「同じ言葉を共有していたから」というヒントに
はっとする。
学生の時に友人と芝居を演ったときに、一番がっかりしたのが「客席の
反応が単純なセリフやベタなネタには、大きく反応する」ということ。当時は、
何でこんなベタベタなとこに反応するのか?と、非常に悔しいともがっかりと
もとれない複雑な心境だったんです。
狂言でも単純なセリフにキャッキャするのを目の当たりにすると、何だかなぁ
と思っていました。まぁ、萩大名の大名みたいなもん(銘木の形が、すりこぎ
にいいとか、とんちんかんな答えをするなど)かと思えばいいのですが、演じる
方が見所に媚びて、セリフに頼った舞台を見せてしまうこともあるんですよね。
この傾向が、単一言語の国で演じられているからという視点でみると、氷解。
反面、日本語が、漢字、平仮名、片仮名、アルファベット、様々な文字を許容
しているから、イメージを伝える道具に文字や言葉を使うことがラクチンなのも
否めないですけど。
★ ★ ★
と、まぁグダグダ感じたんですが、最終的にものを考えるときは、言葉に頼らざ
るを得ないんですよね。
露文の新谷先生に「外国文学に接したとき、自分自身で責任を取る手段は、
自国語でしか出来ない」(もっとましな言葉だったんですが、意味はこんな
こと。)と言われたときも、ハッとしましたっけ。。。。
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