やるということは、できないということに気づくこと。
「やるということは、できないということに気づくこと。」(柄本明「絶望」の授業―課外授業ようこそ先輩〈別冊〉43ページ)。柄本明の舞台は何度も観ているが、彼がこんなことを考えていたなんて、ガツンときた。
たまにチェックしているサイトで、彼の絶望の授業の本の感想をこの1ヶ月の間に立て続けて目にした。1年前に出版されていた本なのに。
・柄本明『「絶望」の授業』を読む(Okasonの日々雑感)
・17日前 悲しみは (中村猿日記)
小学生に「絶望をテーマとした芝居を作ろう」と提案した話をまとめたもの。辞書的に「望みを絶つ」とか「死ぬこと」のような言葉の置き換えではなく、絶望の発見を芝居をつくりながら考えるということ。大人でも他人に簡単に伝えることの出来ないテーマだ。自分自身に振り返ってみても、これが絶望なんだなんて感じたことはあっただろうか。10年前の脳の手術のときは絶望なんて感じなかった。まして人生観が変わったというステレオタイプなことはなかった。
☆ ★ ☆
「悲しみは」(谷川俊太郎)
悲しみは
むきかけのりんご
比喩ではなく
詩ではなく
ただそこに在る
むきかけのりんご
悲しみは
ただそこに在る
昨日の夕刊
ただそこに在る
ただそこに在る
熱い乳房
ただそこに在る
夕暮
悲しみは
言葉を離れ
心を離れ
ただそこに在る
今日のものたち
☆ ★ ☆
中村猿日記でこの谷川俊太郎の「悲しみは」を引用している。
絶望は言葉の置き換えで分かったようになって安心するものではないんだなと、気が付く。
むきかけのりんごのように、時が止まってしまってそこにあるだけのもの。自然の摂理に逆らって、止まってしまっているものに絶望を感じるのかもしれない。
10歳になる前に、自分がどこから来たのか分からなくて、考えれば考えるほど怖くて泣いてしまったことがあったのを思い出す。これが絶望だったのか。
いろんなことに気が付くこと、第三者の目になることが、絶望なのかもしれない。
そんなことを考えさせてくれる一冊だった。
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