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2005.02.15

日本語力の低下とほりえもん

江川紹子がLDのほりえもんにインタビューした時の要旨とコラム「新聞・テレビを殺します」 ~ライブドアのメディア戦略」(2005/2/10)を読む。

情報の市場原理適用。流通してこそ情報に価値があるのは事実だが、それは現時点の価値、出来上がったものだけなんだけどなぁ。寝かせて醸し出す、価値を創造するには、単純な人気だけに頼るのでは難しいと思う。

☆ ★ ☆

「人気がなければ消えていく、人気が上がれば大きく扱われる。完全に市場原理。我々は、操作をせずに、読み手と書き手をマッチングさせるだけ」 そうなれば、確かに新聞社の意図的な情報操作はできなくなる。その一方で、埋もれていた記事の発掘、少数者の声などは表に出てこない。が、堀江氏は「いいじゃないですか、それで。そういうもんじゃないですか、情報って」「読者の関心が低いゴミみたいな記事を無理矢理載せたってしょうがない」

以前読んだOkasonの「日本語力の低下」で取り上げた高校生の日本語への危機感のなさを思い出す。

生徒に授業でこの話をしたが、憂えるとか懐柔するなんて、普段使わない言葉だから、知らなくても別に平気だというようなことを言っていた。驚いてしまった。そういう問題じゃない。言葉を知らないということは、表現の範囲を狭めることであり、意思の疎通がはかれないことであり、それだけで十分恥ずかしいことだ。

日本語にしても、情報にしても、余白というかいろんな深みや広さがあった方が豊かだということが分からないんでしょうか。五月雨、朧月、東風など気象天文の言葉にさまざまな言い回しや微妙な違いを表現できるという豊かさを素敵だと思わないんでしょうか。今、関心がないからという基準で捨て去っていいものだろうか。

Okasonの言うように、表現の範囲を狭めるし、何か新しいことを知っても、「へぇ」で終わってしまうような関心の浅さに、強いてはコミュニケーションを放棄していることに繋がっているんだろうなぁ。

☆ ★ ☆

ほりえもんの言うような、伝える側の「思い上がり」「自意識過剰」が煩く感じると言うのも分からないではないが、情報とはもともとバイアスが掛った物。発信時点、存在時点でエネルギーが発せられているのだから、ニュートラルなはずがないんだけどなぁ。

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