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2007.07.19

プロとアマとアマチュアリズム1

そうだったのか!間狂言で、「素人と玄人で言葉の意味も全然違うかもしれない」と書いた。能狂言でプロと言うと、職分のことを指す場合と能楽協会会員のことを指す場合があるだろう。それ以外の人たちを素人と言うのかな。

この素人と玄人。定義がかなりのブレがある。一般的に言うと、その行為や技術でお金を貰える生業のことを指すのかな。その為、お金を貰うような仕事をする人を「プロ」ということと思われてしまいがちだが、これは逆だ。

技術を評価され、対価が発生するのが正当。お金を受け取ったから、技術があるという訳ではない。つまり、技術に対して正しい評価が出来ない人が対価を幾ら払っても、受け取った人が自分自身を正しく評価出来ていなければ、単なる勘違いになる。

昔、北村想が「ものすごい哲学46」でプロとアマについて触れていたが、肯いてしまった。全文引用する(なくならないようにメモとして)。

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プロとアマというのが何なのかについて記す。かつて某新聞社主宰の座談会で、スーパー一座の座付きである岩田信一さんが「最近の芸能界はプロとアマの差がナイ」という発言をされて、いわば自らのスーパー歌舞伎というものについての位置づけを論証されようとしたのだが、たしかに一夜にして駅前でギター掻き鳴らしていた兄ちゃんたちがスカウトされたり、渋谷を歩いていた女性がスカウトされたりと、そういうことが日常茶飯のご時世だから(しかし、あの梶芽衣子さんもそのてのスカウトなんだけどな)世間が規定するようにその芸で銭が稼げるようになったらプロという判断方法は根強く存在する。しかし、私たちはこの大衆評価には迎合しない。プロとアマを分かつものはその「技術」の優劣でしかナイことは明らかだからだ。とはいえ「技術」という身体性はひとつに持って生まれたという天分のようなものを含んでいる。どんなに努力しても才能のナイものはダメだ。また努力というものは誰もがしている。しない者は論外。したがってアテにはならぬ。しかし、才能というのも人口1万人の街ならば、同等の才能を持つものは5人はいると勘定しておいたほうがいい。だから、こいつも信用できない。ゆえに、「努力と才能はアテにするな」というのが私の格言だ。いずれにせよ、ひとつの表現に道を求めていれば、そこに壁が立ちはだかる。そういう壁におめにかかったことのナイ人々をアマチュアといい、その壁を克服するのに技を開拓した者をプロと呼ぶ。私たちは、こういう基準をプロとアマの基準としておく。

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有様は、正しく技術を評価出来、それを実現させることが出来るのがプロ。課題点が分からないのが、アマということか。

これは、表現の世界だけではあるまい。

ビジネスで言えば「出来ることと出来ないこと」を正しく評価し、しかも最善を尽くすこと出来るのがプロ。

乗り掛かった舟と言うか、やり始めた仕事は、アクシデントがあっても遣り遂げることが出来るのがプロ。

これらのことが出来ないのがアマなのかも知れない。


☆ ★ ☆

この技術と言うものが、表現物、例えば狂言の場合、「技術がある=上手」と単純ではないのが難しい。そうではないもので、技術をカバーしてしまうことがあるからだ。千作翁の舞台など、あれは技術の何十乗のほんわかオーラで舞台を作ってしまうからなぁ。

そんな意味で、彼らがプロとは何かと考えているのかを問い質してみたい気もする。

20年もの昔、「プロなら喉のためにタバコを控えて節制すべきでは」とタバコを吸う某狂言師に(注:うちの先生ではない)問うと、「タバコを吸おうがいい舞台を作るのがプロ」と答えた。

釈然としなかったな。

☆ ★ ☆

この項は1としたのは、もう少し書きながら考えを整理してみたいと思ってのこと。

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