マンセー本
日曜(2008/10/19)、毎日新聞の書評で、渡辺保がを取り上げていたものに気になることに触れていた。引用する。
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(前略)宝生閑の芸をほめすぎるという非難があるかも知れない。当人の前で、ここまでいわれると、現に当人も照れているではないかという批判である。
しかし私は別な考え方を持っている。むろん客観的に見る目も必要であることはいうまでもない。だが芸は惚(ほ)れて惚れ抜かなければ本当はわからないのである。そこを現代人はとかく忘れる。ましてや芸談をとるということは、プロが企業秘密をあかすわけだから、いくら信頼している相手でも自分に惚れていない人間にその深奥をあかすはずがない。著者が宝生閑に惚れ抜いたからこそ成立した本である。
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まだ本書は読んでいないのだが、「マンセー本」なんだなぁ。
2002年秋にとある能楽雑誌にうちの先生のことを絶賛した巻頭随筆があり、ちょっとやりすぎだろうという意味の駄文をサイトに書いたことがあった。
駄文の真意は「先生の千鳥が絶賛されている文章があるので、興味がある方は読んで欲しい。」「提灯記事みたいな絶賛のされ方だが、そういう関係ではなかったようだ。」の2点を書いたつもりだったのだが、随筆の筆者は駄文中の"歯の浮くような賞賛"が独り歩きして筆者を揶揄していると捉えらたようで、そのことを翌年上梓した本のあとがきに反論していたのだ。これには驚いた。それをきっかけに、"野次馬分野"のインサイダー的なことは触れないことにしたんですね。そんな事件を思い出したなぁ。
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芸談は惚れ抜いた書き手がいるから成立するなんて、感覚的におかしい気がしてしまう。冷静になろう、より客観的になろうという姿勢なしに書かれたものは、裏があるのではと勘繰ってしまわないか。淡々となるべく主観を排してくれるからこそ、真実味があるのであって、好き好き好きのハートマーク連発は、読者に逆効果じゃないのかなぁ。ちょっと言葉が纏まらないから、とりあえずこの気持ちだけを載っけるけど。
坂本雪鳥の「面白い・つまらない→好き・嫌い→巧拙」の段階を経て、最終的に「正邪」の判断基準に到達すべきものだという意見をしっているとは思うが、マンセー本はどうなんだろう。
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