野村万之介先生を偲ぶ会(報告7)
2011/2/22の野村万之介先生を偲ぶ会@ホテルフロラシオン青山のボチボチ報告の7回目。(これまでのは、報告1、報告2、報告3、報告4、報告5、報告6)
亀井忠雄師の話の後半で、思わず?!という噂話に触れましたが、さらりと流されてました。
それと最後に、先にあの世に逝ったから、後から来る兄達に「俺の方が先輩だ。下に居よ」と言うんじゃないかとも語っていました。先生ならそう言いそうです。はい。
亀井忠雄師に続いてのお話は、万之介先生の東京教育大学附属小学校時代の同級生のお方。
後述する思い出のスライドに使用した若かりし頃(小学校から大学生まで)の写真もご提供いただいた方です。
今はガラガラポン(抽選)で入学だった東京教育大学附属小学校は、当時はちゃんと試験で入ったという話から始まりました。この勉強の話と言えば、本郷にある先生の従兄弟がやられているレストランで、その従兄弟が「伯母さんは教育熱心だったんだ。当時としては珍しく女学校出ていたからね」と言っていたことと思い出しますねぇ。南長崎のよろず舞台で梅子夫人が、五狂連のお茶大の子は後輩になるからと可愛がったみたいですしね。
話は、先生が運動神経が抜群、しかも体格が良く、その頃流行ったキックベースボールでは小学生とは思えない球を投げたということ、相撲が得意で東の大関に番付られた話へと続きました。相撲では稽古場で取っているのを母・梅子夫人に見つかり、こっ酷く叱られたとか。この挿話を万作さんに葬儀の時に話されると「母はキツかった、父はダメだったけど」とコメントされたそうです。
近年は附属の同窓会が秋の万之介狂言の会の後に組まれるようになり、その会費は全部万之介先生が持ったという話もされてました。
☆ ★ ☆
本郷の従兄弟の話と言えば、「悟郎ちゃん(万之介先生)は枯れ過ぎだよ。兄二人より老けてどうする。太良さん(萬師)、二朗さん(万作師)がちゃんと摂生してしるのを見習わなくちゃ」と先生が席を外している時にこぼしてました。ほんとに、先に逝ってしまいました。。。
☆ ★ ☆
偲ぶ会の報告シリーズはもう暫く続きます。
Comments