花子と猿座頭(修正あり)
今月は興味深い狂言の舞台が2本あったようだ。「ようだ」というのは、twitter、劇評と演者の解説を読んだからだ。
一つは、野村萬の「花子」@萬狂言(男:野村萬、妻:山本東次郎、太郎冠者:野村又三郎)。もう一つは又三郎家の「猿座頭」@久習會。
村上湛の花子評<2012/6/3 狂言における性差と体制の問題~野村萬の〈花子〉>。ここまで深く抉って考察されるとぐうの音も出ない。私には萬の蓄妾という制度を呼び起こす姿が生々しく目に浮かぶ。勿論、御年82の萬というよりも、私が学生の頃野村三兄弟の万之丞として活躍していた頃の姿でなのだが。この文章を読んでいると、萬は怪物だったのかと思う。twitterでも、現場に居た関係者の余韻に浸るコメントがあった。万作さんの怜悧に分析した花子を思いっきり圧縮させた"質量"の重いものなのか。勿論、故・万之介先生の無邪気な花子じゃ太刀打ちできない。
一方の猿座頭は、演者の野口君の解説が圧巻。主催者の久習會のサイトでは、「近年の記録も1977年の先代三宅藤九郎師と1989年の茂山千之丞師だけではないかと思われ、野村又三郎家にとっては初の上演です。」とある稀曲。片輪や座頭が演目名にある曲は近年上演されにくくなっているが、この解説のようにしっかりと読み解いていけば、そんな言葉狩りが何と上っ面の責任逃れの姿勢なのかということが分かる。
盲、唖、躄などを目の前から排除していってしまうこと、隠してしまうことは、「健常者でないものは人間でない」と追認してしまうことなんではないか。オランダだったかの障害者のリハビリの現場をみて感じたという小西育郎が語る、「今ある状態のなかで幸せになることの方が、障害をがんばって克服して乗り越えるよりもいいのでは」という思想の対極にあるものと同じだろう。
それぞれの状態を受け入れた生き方を認めてあげることの方が、幸せなんじゃないかということ。
戦前、戦中に日本がアジア各地やアイヌ、朝鮮で行った日本同化政策、グローバリズムとか言うアメリカ化をアラブなど世界各地に押し付けている動きと、共通する何かを感じてしまう。
☆ ★ ☆
話をもとに戻す。学生の頃は、何が何でも現場主義、ナマが一番と思っていた。この2本についても、昔なら絶対に見に行っただろう。40も半ばを過ぎると、村上湛の評論を読むだけで舞台を懸想できる。これでいいのかもしれないな。若い人に席を譲り、若い人が熱く語ることに対して聞いてあげる耳と、向くべき方向を指す目を持てばいいのかな。
愚息との生活を前に、部屋に山積になっている本の整理をチマチマやっているが、いつか手に取ってくれるといいと思う本は残そうと思っている。私が愚息に残してやれることは、金や地位でもなく、教育しかないからねぇ。
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