狂言悟録

2012.06.10

手の内

今年の初め、「佐々木俊尚氏に絡んだ人たち」が本当に恐れるべきもの(アゴラ)の記事であるような出来ごとがあった。

炎上当時は、やっちゃってるな~と傍観。と同時、この記事の文末にあるようなネット上の個人情報に関するリスクをコントロールしないといけないと再認識した。

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ここでの情報の出し具合は、以下の線引きです。

1.今の仕事関係は具体的な企業名、案件名が分からないように。特に検索でヒットしないように注意。
2.狂言関係は、公知の事実となってから公開。万之介先生の談話も物議を醸しそうなのは控える。
3.不在予定の情報は載せない。個人情報も家族の名前と顔写真は分からないように。ただ、愚息の顔は載せる。赤ん坊の顔は変わるからと言うのが理由。実際に2ヶ月前の顔と今じゃ全然違う。動画は、愚息名を連呼しているものはマスキングしてるけど。
4.鬼籍の人は、名前も写真も載せる(大体)。

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1997年5月から狂言と愛馬のWEBサイトを公開していたから、個人情報を晒しているのは15年以上になる。ネットとの付き合いはそれよりも1年以上前のパソコン通信nifty-Serveからで、nifty-ServeのIDは個人情報と直結していたのもあり、自分のWEBサイトに個人情報を出すことにあまり抵抗がなかったのかもしれない。このマイナス要素よりも個人情報を晒してでも現実社会との接点を出すことによってのメリットが大きかった。普段の生活では出会うことの出来ない方々と知り合うことがとても新鮮で、実際に会うためのハードルを低くするのに顔出しの効果があったと思う。加えて、ネット人口の少ない大阪から発信してたから、インパクトはあった。東京から関西入りするという方がいれば、じゃぁ大阪で会いましょうとなり、逆に東京に出張するんで集まりませんかと声掛けをすれば、さっと会合が出来る。その頃はオフばっかり出てた気がする。社会に出て育った地元を離れてから、馬の話、芝居も狂言もあんまりできなかったのもあるかな。

ネットの友達がバンバンと増えていったが、ある時を境にブレーキを踏んだ気がする。1年が5年?と言われるネットの人間関係のスピード。3年ほど経つと、これ以上見知らぬ人とネットだけの知人になるのは許容量越えそうだと感じ始めた。もう現実社会で会わない人とはいいかなという線引きをする友達もチラホラ出て、その気持ちに納得するのだ。

今では、ネットとの関係の折り合いもついて、適度な道具として使うスタンスになった。40過ぎて、実生活もそう疎かに出来なくなっているのもある。15年頃前の付き合いのあった方々も段々とネットの最前線からいなくなり、寂しい気もするが、時の流れとはそういうものだと思う。

mixiとかtwitter、facebookらのSNSにはノメリ込むことないのは、パソコン通信からのネット史の創世時代から今の流れを知っているのもあるし、これらSNSは閉じた社会のツールという前提に違和感を感じているのもある。余所者に自分らのコミュニティーのルールを掻き回されるのが嫌で、SNSに逃げ込むというのも分からないでもないが、インターネットを使ってて閉じた社会でありつづける訳がない。絶対に漏れる。

実際にmixiとfacebookはアカウントを持ってはいるが、知人の情報を知るためだけのもの。山ノ神は何が面白いのか分からないといつもこぼしている。昔トラブった相手が「あなたの友達ですか?」と毎日出てきて、「余計なお世話じゃ!」と激憤していた。私の場合は、余計なお世話の被害は今のところ会っていないけど。

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そんな訳で、ネットとの付き合いもこのブログを細々と続けていくだけ。生存証明みたいなもの。ここを続けていけば、狂言に関心のある人が万酔会に来てくれるし、情報収集している先祖情報もたまにやってくる。

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■おすっ。

愚息が大きくなって、いつかこのサイトを見つける時が来るだろう。その時、椎名誠のお子さんらのように複雑な気分にならないといんだけど。

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2011.03.10

野村万之介先生を偲ぶ会(報告9)

2011/2/22の野村万之介先生を偲ぶ会@ホテルフロラシオン青山のボチボチ報告の9回目。(これまでのは、報告1報告2報告3報告4報告5報告6報告7報告8

来賓お3方のお話披露の後、式典半ばで先生の思い出のスライドショーを会場左手のスクリーンにて上映。司会の石崎さんと石田先生の解説を織り交ぜながら進めんでいきました。

主な写真は次の通り。

1.生後百二十日目 (1939年)
2.四郎様(八歳)と (1943年)
3.小学校卒業式 (1952年) ご学友ご提供
4.万之介先生とご学友 ご学友ご提供
5.ご母堂・梅子様 ご学友ご提供
6.高校時代 (1950年代) ご学友ご提供
7.ご友人と伊豆にて (1950年代) ご学友ご提供
8.釣狐 (1970年) 万作の会提供(亀田邦平撮影)
9.新の会「金岡」 (1981?) (吉越スタジオ撮影)
10.ギリシャ公演にて (1965?) 野村四郎様ご提供
11.芸術選奨・文部大臣新人賞受賞 (1980年)
12.奥様とのツーショット

以後、万之介狂言の会や万酔会、学生弟子との交流などを上映。石田先生と石崎さんの掛け合いは息が合っていましたね。


子供の頃の写真を見ると、やはりご母堂・梅子婦人に良く似てらっしゃる。

学生時代は「甘いマスクが女子学生を虜にした」という話。しかも、髪形には煩かったとかで、伊豆での写真のエピソードとして、髪のセットが崩れるからと泳がなかったとか、常に鏡を見て髪をチェックしていたとか。そう言えば、万之介先生は髪の毛を触られるのを異様に嫌がりました。当時武司だった萬斎師も、「叔父さんは髪の毛触れるの嫌がるんだよねぇ」と20数年前に語っていました。

ちなみに私と先生の髪の話と言うと、電車に乗って先生が座った時に、前に立たれるのを嫌がったことでしょうか。「そんな見下ろすんじゃない!」ってね。

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ギリシャ公演の写真は、この公演がきっかけで燿子先生(奥様)と知り合ったんですよねぇ。スライドの後に親族代表として万作先生もそのことに触れていました。

これは愛犬・ロクを可愛がる先生。ロクは先生がゴロウだから、一つ下の数字にして呼付けやすいのにしたのが由来(だったはず)。ロクは2代居たはずなんですが、この写真は先代か2代目か分かりません。いずれもダックスでした。ロクは怒って吼えたり、噛み付くんですよね。私が先生のお宅にお邪魔したときは私の姿形を見て恐れをなしたのか、近寄ってこなかったですが、被害にあった先輩は数知れず。

地方公演が多い万之介先生でしたが、「長く自宅を離れるとロクが怒って部屋中をグチャグチャにするんだよ」と先生はニコニコして語ってましたっけ。父君・六世万蔵の愛犬はロコと呼んだそうですが、その犬も可愛がっていたそうです。

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偲ぶ会の報告シリーズはもう少し続きます。

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2011.03.09

野村万之介先生を偲ぶ会(報告8)

2011/2/22の野村万之介先生を偲ぶ会@ホテルフロラシオン青山のボチボチ報告の8回目。(これまでのは、報告1報告2報告3報告4報告5報告6報告7

亀井師、同級生のお話の披露の後、いよいよ小林責先生(以下責先生)のお話と献杯。
責先生は、今年創部60周年を迎える早稲田狂言研の一期生。中々辛口の話から始まりました。若い頃の先生の芸は「覇気が無い」「もどかしい」と言い、萬・万作の兄二人がスパルタ教育だったのに比べ、万之介先生は三番叟を披いた歳が29歳と大分遅れていたことや父六世万蔵師が可愛がりすぎて、老人の芸を教えてしまったからではないかと思っていたそうです。

それが60歳になった頃、万之介狂言の会が10回目を迎えた頃から、良くなったと感じたそうです。老人の芸が等身大に、実年齢に追いついて来たからなんだと分かったそうです。そんな中、第17回の万之介狂言の会で川上のシテ(アドは万作師)について、凄く良いと感じ手紙を万之介先生に送り、その時の万之介先生の反応が、

「どうだ、分かったか!」

と電話で寄越したとか。

如何にも万之介先生らしい。。。良いねぇ。

それと、シテを喰わないいい狂言をしたという話もされてました。
これが重要なんですよねぇ。狂言を壊さないのがね。

思えば、稽古でもアドがガリガリやると「壊れる」と言うのと同時に、舞台が終わった後は、「今年は辛抱したのだから来年はもっと良い役をやろうな」と言うようなことも仰ってくれてましたねぇ。三兄弟でいつも長袴の主ばかりで、鬱屈していたことが多かったんだと思います。

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偲ぶ会の報告シリーズはもう暫く続きます。

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2011.03.08

野村万之介先生を偲ぶ会(報告7)

2011/2/22の野村万之介先生を偲ぶ会@ホテルフロラシオン青山のボチボチ報告の7回目。(これまでのは、報告1報告2報告3報告4報告5報告6

亀井忠雄師の話の後半で、思わず?!という噂話に触れましたが、さらりと流されてました。
それと最後に、先にあの世に逝ったから、後から来る兄達に「俺の方が先輩だ。下に居よ」と言うんじゃないかとも語っていました。先生ならそう言いそうです。はい。

亀井忠雄師に続いてのお話は、万之介先生の東京教育大学附属小学校時代の同級生のお方。
後述する思い出のスライドに使用した若かりし頃(小学校から大学生まで)の写真もご提供いただいた方です。

今はガラガラポン(抽選)で入学だった東京教育大学附属小学校は、当時はちゃんと試験で入ったという話から始まりました。この勉強の話と言えば、本郷にある先生の従兄弟がやられているレストランで、その従兄弟が「伯母さんは教育熱心だったんだ。当時としては珍しく女学校出ていたからね」と言っていたことと思い出しますねぇ。南長崎のよろず舞台で梅子夫人が、五狂連のお茶大の子は後輩になるからと可愛がったみたいですしね。

話は、先生が運動神経が抜群、しかも体格が良く、その頃流行ったキックベースボールでは小学生とは思えない球を投げたということ、相撲が得意で東の大関に番付られた話へと続きました。相撲では稽古場で取っているのを母・梅子夫人に見つかり、こっ酷く叱られたとか。この挿話を万作さんに葬儀の時に話されると「母はキツかった、父はダメだったけど」とコメントされたそうです。

近年は附属の同窓会が秋の万之介狂言の会の後に組まれるようになり、その会費は全部万之介先生が持ったという話もされてました。

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本郷の従兄弟の話と言えば、「悟郎ちゃん(万之介先生)は枯れ過ぎだよ。兄二人より老けてどうする。太良さん(萬師)、二朗さん(万作師)がちゃんと摂生してしるのを見習わなくちゃ」と先生が席を外している時にこぼしてました。ほんとに、先に逝ってしまいました。。。

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偲ぶ会の報告シリーズはもう暫く続きます。

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2011.03.07

野村万之介先生を偲ぶ会(報告6)

2011/2/22の野村万之介先生を偲ぶ会@ホテルフロラシオン青山のボチボチ報告の6回目。(これまでのは、報告1報告2報告3報告4報告5


今回は、偲ぶ会の式典の式次第をここで紹介しましょう。

会場に入って献花をしていただき、19時過ぎから「開会の辞」。
続いて、「代表発起人挨拶」。発起人を代表して万酔会の最長老で、万之介先生と一番長く稽古のお付き合いをした濱田先生(今は定年で退官されていますが、名古屋大学で独逸語の教鞭を取られていましたので、我々万酔会社中では先生の敬称をつけて呼んでいます)がされました。私は会場の外で諸々の雑務をしていましたので、会の中盤までは生で拝聴していません。後日録音を確認したのですが、濱田先生らしい実直な語りだったと思います。

この発起人挨拶で触れていなかったかもしれませんが、濱田先生他、名古屋大学のドイツ語教師であった池田信雄さん・池田香代子さんご夫妻(池田香代子さんは「ソフィーの世界」の翻訳者)をはじめ仲間たちが万之介先生の初期のお弟子となります。きっかけは、オーストリア人で名古屋大学客員教授のフォルクマル・コレルさんが中心となってお稽古を始めたそうです。彼らと先生とのお付き合いのことは、万之介狂言の会のパンフに書かれています。特に第7回の池田香代子さんの”「問うな」の万之介師匠”は是非呼んで頂きたい物です。

発起人の挨拶の後は、先生所縁の方々のお話。
筆頭は亀井忠雄師。万之介先生と言うより、「ゴロちゃん、ゴロちゃん」という幼馴染の頃の話や先生の苦い思い出、三番叟の稽古風景を取材したNHK特集のドキュメンタリー「ここに継ぐもの」を羨ましく見ていた時の話などを語ってくれました。

今から思えば、先生と呑んだときに能楽師の先生方で話題に上るのは、シテ方よりも囃子方の先生のことの方ばかりでしたねぇ。

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偲ぶ会の報告シリーズはもう暫く続きます。

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2011.03.03

野村万之介先生を偲ぶ会(報告5)

2011/2/22の野村万之介先生を偲ぶ会@ホテルフロラシオン青山のボチボチ報告の5回目。(これまでのは、報告1報告2報告3報告4

当日頂いた供花の数、75基。祭壇前に供花と名札を立てる方式でなく、会場入口に芳名板に掲示する方式でいきました。シテ方五流をはじめ、沢山の職分の方や公演関係先、例えば地方公演の興行主や定宿にしている旅館など。更にはファン数名の連名のものや、単にファン一同としたものもありました。このファン一同のお花は、全国各地のファン29名の方によるものです。万之介狂言の会のDMの名簿に名前があったかどうかも、ちょっと分かりません。それから様々な教室で万作一門の先生方にお稽古をしている社中の方々。勿論、早稲田、東大、東京女子大、お茶大の各狂言研の卒業生の有志、現役のもあります。OG個人でお供えされている方も。

会をご案内するときは、これほどまで多くの方々のお志を賜れるとは思いもしませんでした。先生の人徳ですねぇ。
ここで改めて芳名板2枚の写真は載せませんが、お礼申し上げます。

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偲ぶ会の報告シリーズはもう暫く続きます。


■式典内のお話の一コマ。

次回から式典の内容に触れる予定です。

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2011.02.28

野村万之介先生を偲ぶ会(報告4)

先日の報告1報告2報告3に引き続いて、2011/2/22の野村万之介先生を偲ぶ会@ホテルフロラシオン青山のことなどを綴って行きます。

1/11に万之介先生の逝去が公になってから、急ぎ準備した偲ぶ会。お陰様で弟子たちが想定してた以上の方々がお集まりになり、またご供花などの志も頂戴しました。最初に描いていた祭壇よりもグッと立派なものになりました。


■ 祭壇に献花をする方々。遺影は「鏡男」のシテ。真ん中で哀悼の意を表しているのは、東次郎師の後姿かと思われます。

そんな訳で会場内も大分混みあってしまい、お越し下さった方々には多々失礼なことがあったかも知れません。
そこは万之介先生に免じて、ご容赦いただければと思います。

ちなみに、当日の苦言は「司会者の声が大きい」と言うものだけだったようです。司会者は、早稲田狂言研の出身のフリーアナウンサーI氏です。やはり、狂言で鍛えた声は伊達ではありませんね。

普段はスポーツ中継やビリヤードの実況などを担当する彼の声は、しっとりとしていません。妙に明るくなるかもしれないが、それでも構わないだろうかという危惧もないわけではありませんでした。ただ、明るいことの好きだった万之介先生ですから、沈んだ会よりもずっとこの方が好ましかったのではないでしょうか。

それにI氏の狂言は、常日頃から万之介先生から「あいつは器用な奴だ」と賞賛されていたのです。万酔会が独立する前まで万作一門の弟子の会だった万の会では、すばらしいパフォーマンスを披露しています。三人片輪のシテをこなし、また墨塗の女を演った時には、大名を真っ黒にさせて「やり過ぎ!」と石田先生から呆れられたほどです。そう言えば、私と一緒に出た万酔会の仁王では、「万之介先生がどうか○○に選ばれますように」とやって、後見だった当の先生が苦笑し、観客からやんやの喝采を浴びたんですよね。

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偲ぶ会の報告シリーズはもう暫く続きます。

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2011.02.27

野村万之介先生を偲ぶ会(報告3)

先日の報告1報告2に引き続いて、2011/2/22の野村万之介先生を偲ぶ会@ホテルフロラシオン青山のことなどを綴って行きます。

偲ぶ会のロビーと会場内に飾った写真パネルは以下の通り。

1.狂言「墨塗」(2010年 撮影 狂言ござる乃座 43rd:政川慎治)

報告2でも触れた通りの写真です。

2.狂言「柑子」(2010年 撮影:政川慎治)

→ホテルのエントランス部分に設置。恐らく「こうじ(柑子=好事の掛詞)門の出でず」の部分だと思います。

3.「敦―山月記・名人伝―」(2005年・世田谷パブリックシアター 撮影:宮内勝)

→「敦―山月記・名人伝―」のパンフ裏の写真にも使われている部分。

4.狂言「止動方角」(1994年 第6回万之介狂言の会 撮影:吉越立雄)

→ファンからのメッセージ横に設置。

5.いわき市湯本温泉にて(2004年頃 撮影:矢野達男)(写真下)

6.水戸市城東にて(2003年頃 撮影:矢野達男)(写真下)

→5の写真は万之介先生のお気に入りのもので、遺影に使って欲しいと言っていたくらいでした。実際には、密葬でも偲ぶ会でも別の写真(鏡男のシテ)にしていますが。。。

7.「法螺侍」(1991年 撮影:平山仙之助)(写真下)

→90年代前半に万之介先生を撮り続けていた平山仙之助さんの写真。個展で使用した後、弟子たちに譲ってくれるということになって、2001年の国立能楽堂研修舞台での万酔会終演後に、希望者に引き取られたものです。

見ての通り、このパネルには万之介先生の直筆サインがあります。万之介先生が色紙にサインをするのも珍しいくらいで、この日は万酔会の女性の弟子のたってのお願いに応えて書いてくれたものです。会場入口に設置したので、出席者の皆さんが、珍しい先生の直筆サインに見入っていました。なお、中部地方の某旅館にも先生のサインがあると聞いています。見つけられた方は倖せ者ですね。

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先生のサインといえば、10年程前、名古屋能楽堂の楽屋口で出待ちをしていた青年が、万之介先生をご指名で書いてもらったのを覚えています。当時はまだ萬斎ブームの余韻のあるころだったので、珍しいなぁと思ったのでした。先生も一瞬驚いた様子で、本当に僕でいいのか?と言ったことを言ってました。

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偲ぶ会の報告シリーズはまだ続きます。

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2011.02.26

野村万之介先生を偲ぶ会(報告2)

先日に引き続いて、2011/2/22の野村万之介先生を偲ぶ会@ホテルフロラシオン青山のことなどを綴って行きます。

偲ぶ会当日は19時から開始。開会の前に、先生のことを偲んでもらおうと、入口横で1989年から主宰した「万之介狂言の会」の歩みを紹介するパネル展示。全22回分のチラシとパンフをズラッと並べました。最初の頃はチラシも小さかったのですが、年々他の公演パンフのサイズが大きくなり、チラシ棚で埋もれてしまうと言う事で、途中からサイズを大きくしたのも分かります。


■ こんな感じです。じっくりと読んでいる方が多数。万作さんも読み入ってました。


■ 奥の大きいパネルは昨年演じた墨塗の大名。

上の写真の中央にある大パネルの「墨塗」。これは昨年の「狂言ござる乃座 43rd」(2010/03/31)で遼太君の太郎冠者、石田さんの女で演じた大名のもの(撮影:政川慎治)。このパネルの脇に、つい最近出版されたテアトロ2011年3月号を展示。その号の特集記事「2010年・劇評家18氏による[舞台ベストワン・ワーストワン]」の中で、みなもとじろうさんが、万之介先生の墨塗の大名を取り上げているんですね。

そう言えば、昔サンデー毎日で中野翠が同じように94年の万之介狂言の会を彼女のコラム「私の青い空」で取上げていたことがありましたね。今は「偽隠居どっきり日記」(文春文庫)に収録されています。ただそこで感激したのは、先生の曲じゃなく故・圭五郎さんなんですが。


■ 万作の会さんが募ったファンからのメッセージを万之介先生の止動方角と共に受付横に掲示。

受付横に、万作の会に届けられたファンからのメッセージを掲示しました。

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この墨塗の大名。本当に先生は良い顔をしているんですよ。元々墨塗は野村の家では良い扱いをされていなかったと記憶しています。万之介先生も墨塗は嫌いだと言っていた筈なのですが、どうも最近は気に入っていたようです。土屋恵一郎の「狂言 三人三様(第1回 野村萬斎の巻)」で、萬斎のコメントにそんなことが書いてあって驚いた覚えがあります。

ちなみに、昨年の万酔会で私と墨塗をやったときは、「前田に女心を教えてやる!」と言って、私の大名、竜楽さんの女、先生の太郎冠者という配役になったのでした。

別項で触れるつもりですが、偲ぶ会での万作師の挨拶でもこのことについて語ってくれました。

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偲ぶ会の報告シリーズはまだ続きます。

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2011.02.24

野村万之介先生を偲ぶ会(報告1)

先日ご報告した通り、2011/2/22の野村万之介先生を偲ぶ会@ホテルフロラシオン青山で滞りなく執り行われました。恐らく万作の会の会報では、野村万之介先生を偲ぶ会の模様を後日紙面で報告されると思います。

しかし、出席したくても出来なかった方も大勢いらっしゃると思うので、差し支えない範囲でですが、ボチボチ報告していきます。
皆さんもこの機会にご一緒に先生を偲んでください。

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普段の生活では社交的な万之介先生。でも、能楽界ではちょっと斜に構えていた模様。そんな出席者が読めない状況で、時間もなく出席者にお渡しできるものはないかと考えたのがこの小冊子「家業 狂言」。2001年刊行の「なぜ私はこの仕事を選んだのか」(岩波ジュニア新書)の先生の項を中心に、万作の会のファンの会報「yoiya2」での先生のエッセイを織り交ぜて作ることに。編集した万酔会の先輩は某新聞社で著作権周りの仕事としてて、この辺の権利関係をクリアにして偲ぶ会当日の刊行に間に合わせました。
この小冊子に式次第を挿んで、会当日に出席者にお配りしました。


■ 新書版40ページの小冊子。装丁もシンプルながらもしっかりしています。


■ 巻頭写真は岩田アキラ撮影の「縄綯」の様子。

万之介先生の文章をただ羅列したのではなく、また会報に掲載された全ての先生のエッセイが入っている訳でもありません。良い感じに編集されています。目次はありませんが、章立ては以下の通り。

・略歴
・家業 狂言(出典:「なぜ私はこの仕事を選んだのか」(岩波ジュニア新書)2001)
・猿に始まらず (出典:「yoiya2」2000 Summer)
・父の思い出 (出典:「yoiya2」1999 Spring)
・父の趣味 (出典:「yoiya2」1998 Autumn)
・渡米 (出典:「yoiya2」2000 Winter)
・万之介狂言の会 (出典:「yoiya2」1999 Summer)
・「第14回 万之介狂言の会」前のインタビュー (出典:「yoiya2」2002 Autumn)
・「万之介狂言の会」 公演演目
・学生と (出典:「yoiya2」1999Winter)

狂言師として大曲の披きが遅かった万之介先生が、狂言師になる意識をもった話から始まって、父・6世万蔵の厳しい稽古、父との思い出、人生の転機、自ら主宰した万之介狂言の会、そして40年近くに亘り指導し続けた学生との交流について、等と編集されています。

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お志を頂いた方にも、お分けする予定でいますので、近々にお手許に届くかと思います。

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