一族

2016.09.20

和泉の堺と仰せらるれば(万乃会まで後5日)

倅の初舞台@万乃会まで「あと5日」。
先週末に最後の師範稽古も終わってしまった。後は、毎朝の稽古でどれだけ自然な型を維持できるかなのだが…

さて、倅の初役は「痺」の太郎冠者。主人に「和泉の堺」へ御遣いを頼まれる話だ。
堺は我が家にとって縁がある場所だった。江戸末期、高祖父が医業と神官を修業し、高祖母を娶った地なのだ。
知人の個展を拝みに行くついでに、先祖縁の「堺天神(菅原神社)」と「薬祖神社」へ父子二人でお参りにいくことにした。

折角なので、プラチナチケットの寝台特急サンライズ出雲・瀬戸号の席獲得にチャレンジ。噂通り1週間前にキャンセルが数席出て、何とシングルツインが買えた。

夜行で行けると知ったチビの興奮する様。凄かった。毎日念仏のように、あと何回寝たらサンライズ!だよ。


■電光掲示板に目指す列車の名前が!

↓東京駅9番ホームに21:40頃入線。このはしゃぎ様。ちゃんと黄色い線の内側をキープしているものの、後から考えるとコケタら怖いな。(※2016/09/23 動画差替)



■入線し終わって、ちょっと落ち着いた倅。


■シングルツインの1階部分。結構きれい。


■シャワー室。24時前に並ぶ列が途絶えてやっと浴びれた。


■実はその前、漸く寝てくれたのだった。それを叩き起こしたのだ。


■乗車早々、売切れる前に買ったシャワーカード320円


■最終目的地は和泉の堺なので、5時25分の近畿初停車駅の姫路で降りなければならない。4時半に、これまた叩き起こした。尼崎あたりの朝焼け。

買えればどんな席でもと思ったが、今から思えばシングルソロだと狭すぎて、チビと添い寝はしんどかっただろうな。シングルツインで良かった!

☆ ★ ☆

姫路から一目散に天王寺へ。チンチン電車に乗って、堺へGO!


■以前乗った阪堺線はこんなにきれいじゃなかったな…


■堺天神は大小路駅が最寄。駅にも天神さんと神農さんの看板が出てる。


■行き過ぎて、裏門から入った。この奥が、薬祖神社。


■表門の菅原神社。意外と小さい。

今回寄った大小路の堺天神。周りは薬種問屋が結構あったそうだ。大阪で言う道修町みたいなものか。
「痺」で御遣いに行かされるところも、この大小路辺りだったのかもしれないね。

今度はふとん太鼓見に、来なあかんなぁ。

☆ ★ ☆

ちなみに、堺と狂言と言えば、釣狐の由緒になる「少林寺」が、この大小路から南に2駅先にある。万作先生も「小さいお寺なんだよねぇ」と嘗て参拝したことがあると仰っていた。そこには今回は時間がなくお参りできなかった。また次の機会だな。

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2016.07.18

台湾じゃなく蘭台だった

昨年亡父の長兄も鬼籍に入った。従兄には遺品や写真を整理する時に、祖父の写真や処分するつもりの掛け軸などがあったら譲って欲しいと頼んでいた。

出てきた祖父の写真が二葉。1枚は医者になりたての頃と言われる笑った普段撮りのもの。2年前のMBSの軍歴証明の取材時に手許にあった唯一の写真は、もっと親戚の伯父さんぽいものだったから、正反対のイメージだ。ただ、軽口をバンバン言う人で、思想はリベラル。本家が家長とそれ以外で大きく区別していたのに反発して、息子らにも平等に「○○さん」と言っていたほどである。


■これがその写真(23、4の頃か)


■我が家にある唯一の写真

先日の法事で見せてもらったのは、亡くなった伯父が誕生した時の写真。


■中央が祖父母。前列左から祖父の母、父、祖母の父、母。後列左から祖母の弟、祖母、伯父(父の長兄)、祖父、祖母の叔母。撮影場所は恐らく根津片町の前田医院の庭先か。

お宮参り後の写真であれば、昭和2年の暮れか。末っ子だった祖父を可愛がっていた祖父の母までが奈良榛原から上京している。父方の高祖母の写真は初めて見る。ちょび髭を生やし、ちょっと厳めしい顔をしている祖父(27)。今から思えば、大正13年暮れに現役満期になって、昭和13年の臨時招集の応召までの14年間の束の間の平和だった頃なのだ。

☆ ★ ☆

この伯父が生まれた時、木製の額を祖父が知人から貰ったという。祖父が「この額だけは絶対に売るな」と言っていたそうだ。
誰の書なのかと聞くと、伯父の話では「台湾の知人」と言う、従兄もそう聞いていた。従兄が念のため鑑定に出したところ、無名の書だと言われたそうだ。

処分するなら譲って欲しいと言っていたので、昨年暮れに引き取ってきた。


■今は我が家の玄関に掛けている。


「春風到和」。落款に「寿」とあって、しかもこの「和」の字が伯父の名前の一部で、きっとそれを織り込んでの書なのだろう。

さて、この額の作者だが、「蘭台秋」とある。調べると二世・中村蘭台(秋作)のようだ。篆書の大家で、昭和天皇の雅印や横山大観の刻印を作っていたという。

初世蘭台と区別するために、「秋」の字を付けていたそうだ。根津片町のそばに、中村蘭台の墓もあるということは、きっと蘭台も近所に住まわれていたからの縁なのか、あるいは祖父の祖父・日高宏雲が書家だったというから、その縁だったのか。詳細は分らない。

従兄は本当にまともな鑑定に出したのかなぁ。まぁ、お蔭ですんなりと譲って貰えたのだが…

☆ ★ ☆

軍歴証明と言えば、最近は「軍歴証明の見方・読み方・とり方」(栗須章充著/日本法令)という本が出て、読んでみた。私の知りたかった軍医関連の情報が無く、がっかりした。

【関連記事】

「軍歴証明を取ってみた」(2013.09.12)
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2016.05.31

法事の一コマ

今月は伯父の法事が2回もあった。一人っ子のチビにはこういう雰囲気を知っておいた方がよいと思って、当然出席。今年からは、倅唯一の従妹も出るようになった。

いつもと違った様子で、大はしゃぎのチビ達。倅は親戚のオバサンから、チョロQを貰ってご機嫌。
姪っ子は倅のことを「ニイヤン」と追っかけておったな。この姪っ子は、4歳の倅と3歳違いなのだが、体重差は2キロしかないし、足の太さはもう変らんのだ!あちゃ~。

私が子供の頃は、法事と言えば従兄弟が一杯集まって楽しかったんだが、この日はわしら兄弟の子のみ。追善する伯父さんのひ孫は確か倅と同い年だった筈なのだが。出なくなると、段々とこの人は誰だっけという感じにもなってくるんだよねぇ。そうならない為にも、写真にこの人は誰々とメモを残してあげないといけないなぁ。

そう言えば、昔の写真の裏にはちゃんと人型とキャプションを書いていて、今のFBのタグ付みたいなことをしているんだな。

☆ ★ ☆

ここは本郷・願行寺。親戚筋のお寺。森鴎外の「細木香以」の十三の項に


 本郷の追分を第一高等学校の木柵もくさくに沿うて東へ折れ、更に北へ曲る角が西教寺と云う寺である。西教寺の門前を過ぎて右に桐きりの花の咲く寄宿舎の横手を見つつ行けば、三四軒の店が並んでいて、また一つ寺がある。これが願行寺である。
 願行寺は門が露次の奥に南向に附いていて、道を隔てて寄宿舎と対しているのは墓地の外囲そとがこいである。この外囲が本もとは疎まばらな生垣で、大小高低さまざまの墓石が、道行人の目に触れていた。今は西教寺も願行寺も修築せられ、願行寺の生垣は一変して堅固な石塀いしべいとなった。ただ空に聳そびえて鬱蒼うっそうたる古木の両三株がその上を蔽おおうているだけが、昔の姿を存しているのである。
 わたくしはある日香以が一家の墓を訪おうと思って、願行寺の門を入った。門内の杉の木立の中に、紺飛白こんがすりの浴衣ゆかたを著た壮漢が鉄唖鈴てつあれいを振っていて、人の来たのを顧みだにしない。本堂の東側から北裏へ掛けて並び立っている墓石を一つ一つ見て歩いた。日はもう傾きかかって来るに、尋ぬる墓表は見附からなかった。
 忽たちまち穉子おさなごの笑う声がしたので、わたくしは振り向いて見た。顔容かおかたちの美くしい女が子を抱いてたたずんで、わたくしの墓表の文字を読んで歩くのを見ていた。
 わたくしは捜索を中止して、「あなたはお寺の方ですか」と問うた。

に書かれている寺である。上記引用のお寺の娘は、年齢的には私の祖母だったのかも知れない。

☆ ★ ☆

法事は14時半には終わった。その後、姪っ子と弟は上野動物園に。それを聞いた山ノ神。「血筋だ… 1歳児に外出の予定をいくつも入れてしまうとは」と呟いた。

ああ血筋ですとも。法事の前に、師範稽古に出席し小一時間お稽古。その足で法事へ。法事が終われば、市民プールで1時間遊んで、夕食前に近所の公民館で狂言のお稽古のオサライ。

山ノ神「4歳児に1日に4つも予定を入れるなんて…」

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2015.12.08

70年目の年のニイタカヤマ

今日は真珠湾攻撃の日。今年は戦後70年の節目の年なのだが、特定秘密保護法や「安全保障関連法案」、先日から配られたマイナンバーのマイナンバー法案(行政手続における特定の個人を. 識別するための番号の利用等に関する法律案」)と立て続けに動いた政府の動きに、我が子の世代が戦争に駆り出されつつある危惧を感じている父兄が多いと思う。草葉の蔭で、先祖たちもきっと臍を噛んでいるだろう。

太平洋関連の書物は夫婦して読み漁り、同じ過ちをしないように、また倅にはちゃんと教えないといけないと思っている。まだ4歳で教えれる年齢ではないが、三つ子の魂何とやらではないが、小さいうちに伝えねばならない。

本ブログに、軍医だった祖父の軍歴確認書を申請した経緯の記事「軍歴証明を取ってみた」(2013.09.12)を掲載しているので、終戦記念日前後には、2013年以降毎年のように「軍歴」「軍歴証明」「軍歴証明 取り方」と言った検索語で訪れる方が非常に多い。
(今では、8月の終戦記念日も関係なく、沢山来られます)

上の図は、今年の8月の様子。いろんな企業や自治体、自衛隊をはじめとする公官庁から覗きに来ています。それがきっかけで、TVや新聞の取材依頼もあったのですが(新聞は取材だけで、記事にはなってませんけど)。

家族の戦争体験を知りたくて、また実体験をしていた家族が語らなかった戦争を知りたいと思っている方が、かなりいるのでしょう。戦争について、歴史について考えるいいきっかけになるので、是非調べてみることをお勧めします。手に取ってみると、こんなに細かく個人を管理していたのかと驚くと思います。

マイナンバーが、こうならないことを祈って。

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2015.08.15

告知書

今日は終戦記念日。

親や親戚からの戦争体験を聞いた以外に、我が家には戦争の痕跡と言うものは何もない。

<父>
・末っ子でまだ小さかった父は、上の兄たち(勤労奉仕できない)が北関東へ行かされてたのとは違って、近く府中に疎開していた話。
・3月10日の東京大空襲は、遠く府中から見てて花火みたいで綺麗だったと不謹慎に思ったと言う話。
・食べ物が南瓜、冬瓜、芋、すいとんばかりで嫌だった。私が子供の頃はこれらの食材は父の食卓に上がらなかった
 ちなみに、昭和2年生まれの伯父は、食糧事情が悪くなる前の昭和を知っていて、うちの父を不憫に思っていたそうだ。

<母>
・昭和20年当時は三鷹台の立教女学院の前に住んでいた母一家。母も小さかったから、祖父母の故郷羽咋へ疎開していた姉たちとは違い、三鷹台に残っていたそうだ。
・立教女学院はクリスチャンの学校だから、近くに爆弾は落ちないと信じられていたそうだ。実際に落ちなかったそうだ。すぐそばに中島飛行機があるんだけどねぇ。
 三鷹台に越す前は、荏原中延に住んでい居たそうだ。戦後寄ってみたら、その時の家の周りは焼け野原になっていたそうだ。
・祖父の弟が戦死した話。


この告知書。
父方の祖母の原戸籍を遡及しようと申請したら、「東京大空襲で焼けて戸籍は焼失した」と言う証明書。
「旧本郷区の戸籍は焼失している可能性が高いんですよ」と担当者に言われたのだが、その通りだった。祖父と祖母が結婚して作った本籍も同じ根津片町なのだが、数番違いで残っていないのだ。

そう言えば、山ノ神の曽祖父も大阪の空襲で焼き出されて、お墓の中には骨が無いのだそうだ。

こんな風に二度と日本を焼け野原にしてはいけない。

今の政権、きな臭くて頭が痛いが、今後も平和を享受できるように我々現役世代が注意しなくてはいけないよな。

☆ ★ ☆

軍歴証明で検索してここにやってくる人が結構多く、今では検索サイト経由での来訪者の80%となっている。
メディアも多い。2日前も関西の某紙から来訪してた。

昨年はMBSテレビの取材があったが、今年も私の在籍してた新聞社とは違う都内の某新聞の取材を受けた。今年は戦後70年でネタも多く、掲載日は分からないという連絡を貰った。そうだろう。掲載することになったら、ここでも案内する予定。

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2015.01.06

同じ日並び

七回忌は先月初めに済ませてしまったが、昨日は亡父の祥月命日。
病院から「今夜が峠」の連絡の後、少したって看護婦さんから「兎に角。急いで!」と電話口で泣いて絶叫していた時から、丸六年なんだ。
日並びが今年と同じで、6年前の明日が通夜だった。丁度今頃は亡父の友人知人関係と連絡を取っていたっけな。

その通夜や葬儀の席で、職場関係先から父の昔話を初めて聞いた。昔の先輩、同僚の語る話は新鮮だった。

仕事では「ダンプ」と呼ばれていた(勢いで押しまくる意味かな)男が、鼾が酷いので社員旅行では離れに寝させられると、寂しいから、鼾は掻かないから頼むから一緒の部屋にしてくれと懇願した話とか。中学受験に反対していた父が、弟が早実に合格したとき相当喜んでいたとか。(早稲田系の学校で野球部の部長をしている父の先輩談)

小学校4年生くらいまでは野球大会やら釣り大会、運動会、BBQなどの会社のレクレーションには連れられ、中間管理職で偉そうにしていた父の姿は覚えているが、オンタイムの様子は皆目わからない。亡父が職場でどんな風なことをしていたのかなんて、殆んど知らないのだから。

2度目の職場を定年後、朝昼晩飲んで暮らし、下らないと言いながらおバカなTV番組を録画して欠かさず見ていた父。遺言も日記を書くこともなく、自分のことは何も語らなかった。結婚当初のアルバムにはキャプションやコメントをマメに書いていた程なのに。

万之介先生の追悼文集の作成のお手伝いをした時や、沢木耕太郎の「無名」を読んだ時、自分の父の追悼本も作って置けばなぁと思った。
今更は無理なのだが。

☆ ★ ☆

倅と遊んでいて、この1年は特に自分が子供の頃の父親のことをふと考えてしまった。何考えて僕ら子供たちと遊んでいたのかって。12歳で祖父を亡くした父は、父親像を全く描けてなかったらしいからだ。父が亡くなってから知ったのだが、長男の私が生まれるときに、長兄に「父親ってどういうものか?父親になる自信が無い」と相談したという。そんな父が、どんな風に考えていたのか。

今生きていれば聞くことが出来るのだがなぁ。いろんな断片を掻き集めて、想像するしかない。

でも、不思議なことに今生きている母がどんな子育てを考えていたのだろうか、とは思わないんだよな。

☆ ★ ☆


■正月のバカ息子


■こんなバカだからウォシュレットでずぶ濡れになって、こんな姿で法事の宴。オシメ取れて下着は不要と油断してた…

軍歴証明を取った祖父の時もそう思ったのだが、近代の歴史を倅と語る機会があれば、お前の先祖がどんな風に生きていたのかと伝えなければと思う。上の写真みたいなバカ息子だが。

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2014.08.20

お盆の日中はTV見てはるなぁ

先日紹介した私が登場したMBS・ちちんぷいぷい「身近な戦争を伝える」(8/14)のコーナー見ました。
ああ、黒いおっさんやった… 

コーナー自体はなかなか良く纏まっていました。名前の呼び方は間違っていますが、大勢に影響がないのでいいんじゃないでしょうか。(振り仮名つきの名刺をお渡ししたんだけどなぁ。)

あと、志願軍医生のこともちょっとずれていた気もしますが、「志願」絡みで南光さんがお父さんの体験談を話されてて、まぁこれも良しでしょう。

この番組を見て、海軍が鎮守府単位で兵歴を管理されていたため、厚生労働省が引き継いだというのを初めて知りました。一つ賢くなりました。

関西では結構視聴率のある番組で、案内をしてなかった方からもお電話やメールを頂いて、ただただ驚いてしまった。お盆休みの日中ってテレビ見てるんですねぇ。うちにはTVが無いので、ピンと来ないのですけど。

これをきっかけに、祖父や伯父らの戦争体験を改めて見つめなおすのもいいことだと思います。
言いたいことは半分も言えませんでした。その辺のところは別項で触れてみます。
倅が物事を分かる様になって、このVTRを見てどう考えるのかちょっと楽しみでもあります。


■倅に分別がつくのはあと何年かかるでしょうか…

☆★☆

動画を抜粋してみますが、この画を見てどうしてダメ出しを喰らったのでしょーーーか。


■私が出る直前辺りから(4分)ここの1:00~から登場。



■一応、全体の流れを知りたい方はここ。「身近な戦争を伝える」のコーナー全体(11分)ここの5:00~から登場。


<追記>
軍歴証明で来られる方が多いので、関連記事を。

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2014.08.14

今日の放送、山ノ神からはダメ出し喰らうの巻

本日(8/14)、大阪の毎日放送(MBS)の報道バラエティ番組「ちちんぷいぷい」(13:55~17:50)の身近な戦争を伝えるのコーナーで15:50頃から先日の取材内容が放映されました。

VTRは見てないのですが、奈良にいる山ノ神の速報写真を載せてみます。
自分の発言はスーパーが着いているので、大体わかります。










いろいろこの件についてはコメントをしたいのですが、VTR見てからにします。

☆ ★ ☆

それにしても、案内をしてない方からもお電話を頂いて、貴重な体験でした。
生放送を見ていた倅は「○○のおとうさんだ、○○のおとうさんだ」を連発していたそうだ。

一方、山ノ神からは「カーテンが…」のダメ出しを喰らいました…

☆ ★ ☆

Yahoo!のリアルタイム検索を見ていると、張り付いて絡んでいる網の右バネの方もちょこちょこいるんで、今日のところはこの辺で。


<追記>
軍歴証明で来られる方が多いので、関連記事を。

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2014.08.13

8/14放映予定のMBSテレビの取材を受けた

(2014/8/13 22:30 追記あり)
昨夜(8/12)、大阪の毎日放送(MBS)の報道バラエティ番組「ちちんぷいぷい」(13:55~17:50)の取材を受けました。

軍歴証明を取ってみたが縁での取材依頼。

8/14(木)放送のこの番組の終戦特集のコーナーで軍歴証明を取り上げるのだそうです。絵になる素材がないので、電話でどうかと申し上げたのですがねぇ。そんな取材時の四方山話は、放送後に触れたいと思います。

この手の取材は取材されても最終的に使われないことも多いのですが、多分ある程度流れるようです。
今まで5回ほどニュース含めてTVで取材されたことがありますが、自宅でのインタビューは初めて。面白い体験をしました。


■この写真パネル(赤丸矢印が今回の主人公の祖父です)とデブなおっさんが関西のお茶の間に…

☆ ★ ☆

残念ながら在京中で生では見ることができない。奈良に帰省中の山ノ神と倅に録画をお願いした。どんな感じなのかねぇ。

先日のしもべ生活で吐露した遠因はこれです。

☆ ★ ☆ (2014/8/13 22:30 追記)

知人情報だと、「最初のヤマヒロさんのコーナー」かその次の「石田さんのコーナー(ニュースのおっちゃん)」じゃないかとのこと。取材記者が、ヤマヒロさんが面白いネタだといって取材することになったと言ってたので、最初ですかね…

<追記>
軍歴証明で来られる方が多いので、関連記事を。

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2013.09.12

軍歴証明を取ってみた

軍歴簿というものがある。恩給の計算とかに使用しているようなのだが、戦後陸軍は各都道府県、海軍は厚生省が管理をしている。ネットを見ていたらを旧軍人の本人及び三親等までなら請求できるという。まだ伯父たちが健在なうちに祖父の軍歴を調べて、それをもとに話を聞いてみようと思い立った。

祖父の本籍は本郷区根津片町。今の文京区根津二丁目。と言う訳で祖父の軍歴証明書請求の申請先は東京都福祉保健局。電話で照会をすると、旧軍人の本籍地と生年月日、請求者との関係等を聞かれる。伯父に聞いた「陸軍の青島病院に勤務していた」らしいという話をしたところ、散逸している資料もあるので、一旦調べてみるとのこと。

小1時間後、外地に渡航してから内地に戻ってきた時の記録が残っていない。別の役所で調べたうえで、軍歴確認書を作れるか連絡すると言われた。最悪は数行の記録しか分からないのだそうだ。

3週間後、ある程度記録が見つかったとのこと。申請書の手引きを郵送するので、必要書類と400円の手数料を用意して手続して欲しいとの指示がある。

何やかんやで1と月以上掛けて手許に祖父のそれが届いた。出勤前に、都庁に立ち寄って受け取る。


■これが祖父の軍歴確認書(1部分)

二カ所内地から外地への渡航の記録が不詳扱いになっていた。本来であれば、船員管理の旅券等の管理がされているそうだ。担当者は「恐らく青島の部隊だから、上海に上陸、出帆したのではないか」と説明。

質問があれば受け付けてくれそうな顔をしていたので、短刀直入に聞いた。
記事の1行目。大正12年12月1日に、「1年志願軍医生として近衛歩兵第1連隊第6中隊に入営」とあるが、これは「志願兵なのでしょうか?」と。

伯父からは同じ医者の義兄が召集から直ぐに除隊で復員したのに、自分はなかなか除隊できなかったと気に病んでいたという話を聞いたことがある。そんな祖父が志願兵だったとは驚きだったのだ。

すると担当者は、「今でいう幹部候補生で、志願兵と言う訳ではないですよ。昭和7年に廃止になった制度です」(年度は聞き間違えているかもしれない)と答えた。それなら納得。

他の経歴を見ると、伯父からは「青島陸軍病院の副院長」と聞かせれていたが、この確認書では昭和14年は青島陸軍病院伝染病室主任、昭和18年は総務主任だった。

臨時召集で昭和13年7月から徐州喜徳野戦病院に赴任したのが43歳。この直前に父を仕込んだのか。
今この記事を書いていて、愚息と私の年齢差が、父と祖父のそれと同じだと気がついた。

昭和14年生まれの父は、昭和18年に内地に祖父が戻ってくるまで父親の顔を知らずに育ったわけだ。4歳までか… このオジサン、いつ帰るの?って、内地に戻った祖父に向かって言ったそうだ。

ちなみに昭和26年に祖父は急逝しているので、父は4歳から12歳までしか父のことを知らない。

☆ ★ ☆

折りを見て、まだ健在な伯父たちから戦争中の話を聞いておこう。

<追記>
軍歴証明で来られる方が多いので、関連記事を。

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台湾じゃなく蘭台だった(2016.07.18)


☆ ★ ☆


■流れるプールで気ままに浮かぶ愚息。この夏は連休取れなかったけど、プールには良く連れて行ったな。

祖父のことを考えると、油断してはいけないな。

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